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「ウィラブ世田谷 
 そとでるへの応援メッセージ

     


●森繁 建氏 インタビュー

今回は前回に続いて、
世田谷区・千歳船橋在住の森繁 建さんのインタビューの後編をお届けします。

一個人として世田谷区内の高齢者や全国の映画ファンに向けて、
独自のご活動を気負いなく続けている森繁さん。

国民的名優として知られる故・森繁久彌氏の次男でいらっしゃいますが、
その心あたたまる活動について、名優の知られざるエピソードとともにご覧ください。



森繁 建(もりしげ・たつる)氏プロフィール

1942年12月10日生まれ。
玉川大学文学部英文学科卒業。
森繁久彌氏・次男。
現在、株式会社賀茂カントリークラブ 代表取締役会長。









森繁 久彌(もりしげ・ひさや)氏
1913年5月4日~2009年11月10日。
大阪府枚方市出身。
俳優。歌手。作曲家。作詞家。エッセイスト。紺綬褒賞、紫綬褒賞、勲二等瑞宝章、文化勲章、従三位、
国民栄誉賞ほか多数受賞。 


*この記事は後編です。 *前編を読む



愛する街で---つなぐ、守る 父の教え  後編


■”わけへだてなく”が父の信条

森繁 父が俳優としての地位を確立したのは35、6歳ぐらいでした。スタートが遅かった分、人生経験が豊富だったのではないでしょうか。最盛期は映画を年間18本撮りましたが、喜劇からシリアスなものまで、演じ分けていました。
父は本当に多彩で、俳優以外にも詩や書を書いていました。優しい詩のときは優しい詩、力強い詩には力のある字というように書体をかえて書くんです。そしてそんな父の多面性を語るとき、ご紹介したいエピソードがあります。
本の題名にした「ピンとキリ」とは「高いものを知ればいい、うまいものを知っていればいい」というのではなく、「両方知っていれば真ん中も味わえる。両方を知っていることで、真ん中を知れば全部知ることになる。そうすることでやがてピンもキリもなく、真ん中もなくなって、すべてがひとつになってわけへだてがなくなる」という意味です。それが結局人とのつきあいかたや、ものの考え方がかたよらないということにつながるのでしょうか。


伊藤 どうしても「キリのほうを知りなさい」という教訓のように思えますが、そうではなかったということがよくわかりました。



森繁
 満州でもさまざまな国の人たちと親しくしていましたが、結局は融合する。わけへだてなく接することですね。



石黒
 そのような精神が「あゆみの箱」(障がい児/障がい者のために芸能人が始めた募金活動。創設者・伴淳三郎氏、永世名誉会長・森繁久彌氏)のご活動などにつながるのでしょうか。ご家族の皆さんも応援されていましたか?



森繁 そうですね。父が活発に活動していた頃は、母が事務局の方々の労をねぎらったり、バックアップしていました。父は「あゆみの箱」の関係で施設訪問などもしていたようですが、私は父が亡くなったあとで知りました。




■引き継いだものと わが町・世田谷

石黒 先ほどの映画の上映会のお話などあわせて、お父さまの「わけへだてなく」という姿勢や、“福祉の心”のようなものが、自然に建さんに引き継がれていると感じました。



森繁 せっかくの父との出会いを断ち切るのは父にも、知り合わせていただいた方々にも申し訳ないということですね。
僕と妻が父から引き継いでいることがありまして、父は盆暮れにいただいたものなど、必ず自筆で御礼を書いていました。晩年になって父が書けなくなった頃から、自然に僕たち夫婦が引き継ぐようになりました。そのなかには父が一度しか会ったことがない方もいらっしゃるし、25年間文通が続いている方もいらっしゃいます。



石黒 文通を心の支えや励みにしていらした方もいらっしゃったでしょう。それを今は息子さんがそっくり引き継いでいらっしゃる。



森繁 そうですね。ご主人を亡くしてさみしい想いをしていらっしゃるご高齢の女性から電話がかかってきたり…。僕と妻が今と同じことを続けることができたら、そんな寂しい方々も、良い気持ちで過ごしていける。“遺された者”として続けていきたいと思います。



石黒 ところで先ほど、時々ご講演をされているとお聞きしましたが、お父さまの作品の上映会などにはよく出かけられるのですか?



森繁
 はい。映画の前などに「親父が今日、この会場に降りてきた」と存在を感じられるようなお話をしたいと思っています。
そういえば、お話をしていたときにある方から「森繁久彌記念館はつくらないんですか?」とご質問をいただきました。



石黒 ファンとしては気になります。



森繁 そうなんですが、父は後ろを振り返らない人なんですよ。常に「すんだ話はするな」という気持ちで、物だけでなく何にも執着しない人でした。
父は、「溜める(ためる)のはよくない。溜めるとよどんでくる」と考えていたようですね。ですから、僕はその意をくんで、ステッキと入れ歯、文化勲章と国民栄誉賞を残して、あとは早稲田大学の博物館(森繁久彌氏は早稲田大学商学部出身)に贈らせていただいたんです。
質問した方に「今後、記念館をつくる気もありませんし、親父がそんなことを知ったら怒ります」とお答えしたら、納得してくださいました。



石黒 最後に、「そとでる」の正式名称は「世田谷区福祉移動支援センター」ですが、建さんの「世田谷」「千歳船橋」への想いをお聞かせください。



森繁 僕は25歳で結婚したあと、祖母が住んでいた鵠沼海岸に住みました。17年間住みましたが、どうしてもこっちが恋しくなっちゃってね。妻も僕と同じ祖師谷小学校でしたし、「なんたって、この辺がいいね。生まれ育ったし…」ということで戻ってきました。結局は65年以上住んでいることになるでしょうか。僕は「世田谷以外考えられない」というか、すべてにおいてバランスがとれていて、緑が多いのが特に好きですね。



石黒 今日はたくさんお話をいただきましたが、「そとでる」にご希望などございますか? 



森繁 福祉車両を使いたいと思ったときに、自分であちこち電話をかけて利用するのは大変だと思います。今日お話をお聞かせいただくまで、このシステムを知らなかったんですが、もっともっと知られて良い存在だと思います。
僕は父の車いすを押していたこともあって、街中で車いすの方に出会うと話しかけさせていただくこともあるのですが、何か、いろいろと教えていただくような感じがするんですよ。
そうやって少しでも知らないことを教えていただくことが次につながると思うので、「そとでる」の仕組みや活動を教えていただいて良かったと思います。アピールなど難しいこともあると思いますが、これからも応援しますので、頑張ってください。



スタッフ こちらこそよろしくお願いいたします。長い時間、ありがとうございました。
  

(了)

お話をうかがって

今回のインタビューを通して、家族・教育の大切さや、
福祉のかたちの多様性など多くのものを学びました。
また、「世田谷区福祉移動支援センター」の活動推進への大きな力を頂きました。
建さま、ありがとうございました。(伊藤)


取材:2012年9月・12月/
聴き手:そとでるスタッフ・伊藤裕幸、石黒眞貴子。まとめ・写真:石黒眞貴子


*この記事は、後編です。 前編を読む