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●森繁 建氏 インタビュー

多くの方からご感想をいただいた、SPECIAL CONTENTS「区長に聞く」に続き、
今回は世田谷区・千歳船橋在住の森繁 建さんにお話をうかがいました。

一個人として世田谷区内の高齢者や全国の映画ファンに向けて、
独自のご活動を気負いなく続けている森繁さん。

国民的名優として知られる故・森繁久彌氏の次男でいらっしゃいますが、
その心あたたまる活動について、名優の知られざるエピソードとともに2回にわたってご紹介します。



森繁 建(もりしげ・たつる)氏プロフィール

1942年12月10日生まれ。
玉川大学文学部英文学科卒業。
森繁久彌氏・次男。
現在、株式会社賀茂カントリークラブ 代表取締役会長。


   







森繁 久彌(もりしげ・ひさや)氏
1913年5月4日~2009年11月10日。
大阪府枚方市出身。
俳優。歌手。作曲家。作詞家。エッセイスト。紺綬褒賞、紫綬褒賞、勲二等瑞宝章、文化勲章、従三位、
国民栄誉賞ほか多数受賞。


  
*この記事は前編です。 *後編を読む



愛する街で---つなぐ、守る 父の教え  前編

■著書にこめた想い


スタッフ伊藤(以降、伊藤) 本日はお忙しいなか、ありがとうございます。
私は建さんが司会をしていらっしゃった映画の上映会(森繁久彌氏の主演映画)に参加させていただいたことがあります。区内の高齢者施設でしたが、映画を熱心に観ている高齢者の方々のうれしそうな顔が忘れられません。
今日お会いいただいたのは、「高齢者や障がいをお持ちの方のサポートにはいろいろなかたちがある。『そとでる』のようなお手伝いの仕方もあるし、このように映画の上映という方法もあるんだ」と思った気持ちを、建さんにお伝えしたかったからです。



森繁 ありがとうございます。お話しいただいた施設での上映会は終了しましたが、施設では1年半ほど上映させていただきました。雨の日も風の日も楽しみにお年寄りが足を運んでくださるお姿や、熱心に映画を鑑賞し笑顔を浮かべる皆さんのお姿に心を打たれました。
ほかには、世田谷区立桜丘図書館(森繁久彌氏の著作本などを集めたコーナーがあることで知られる)が入っている世田谷区立桜丘区民センターで、父や父の出演作品についてお話しする機会をいただいています。実は2月14日(木)にもお話しするのですが、こうした活動はこれからも千歳船橋の街に住む方々やお年寄りのために、誠実に続けて行きたいと思っています。



スタッフ石黒(以降、石黒)
 そのようなお気持ちが現在のさまざまな活動につながっているのですね。
さて、本日お会いいただくにあたって、お書きになられたご本を拝読いたしました。
(『人生はピンとキリだけ知ればいい---わが父、森繁久彌』八幡山一丁目便り参照)
ご姉弟のやりとりを通して時系列に森繁家の戦前・戦後の歴史が語られているので、頭にすっと入って残る。読み終わったとき、何とも言えない懐かしさと優しさに包まれる不思議な読後感でした。


 
森繁 姉とふたりで書きましたが、読者の方からの声をお聞きする機会がないので、ありがとうございます。まえがきとあとがきに、私の想いや父の晩年について書かせていただきましたが、“俳優・森繁久彌”については、ご存じの方も多いでしょう。だから僕たちは“父・森繁久彌”について、「こんなところもあるよ。こんなおもしろい家庭だったよ」ということをお伝えしたい気持ちが強かったですね。
思い返すと、我が家は終戦後の物がない貧乏な時代から、父が活躍するまでの2、3年の間に、生活環境が劇的に変化しました。私たち子どもにとってはとまどうことも多かったのですが、父と母はそのとまどいを早いうちに察知したのでしょう。「このまま、子どもたちを放っておいたらとんでもないことになる」と思って、熱心に教育していたように思います。父が折りに触れて与えてくれた “教え”のようなものを「皆さんにお伝えしたい」と思ったのも、本を書いた理由のひとつかもしれません。



石黒 家族一人ひとりが互いに思いやり、心地よく成長していくために工夫しあう家族に“健やかなもの”を感じました。親だけでなく、叱られたり、注意された子どもたちも、考え、行動していますね。



森繁 はい。私が小学校5年生ぐらいから仕事が猛烈に忙しくなって家にいないことが多くなりましたが、帰宅時のポイントがあるんです。ひとつは「家長」であること。もうひとつは「家に俳優を持ち込まない」こと。
ほとんど家にいない父を私たちが「お父さん、お帰りなさい」と抵抗なく迎えることができたのは、なぜでしょう? たとえば食卓では席が決まっていて、父の席は留守中、誰も座ってはいけない。空席であっても、「家長の席」として存在しているんです。その習慣は父の晩年、僕と一緒に暮らすようになってからも変わりませんでした。
また、父が留守の間に食事をとるときは、必ず陰膳(旅などに出かけた人の安全を祈って、留守宅で供える食膳)を据えていました。ちょっとだけ父のお茶碗にご飯を盛ってから食事をしたり…私たちは「今、ここにいなくても父がいる」と思って暮らしていました。



石黒 現代の家庭ではなかなか見ない光景ですね。



森繁 昔はそういうことが当たり前でした。僕も父がしていたように食卓を大事にし、家族が集まったら楽しいということを伝えていきたいと思いますね。




森繁家の教育

伊藤 ご本の中に「森繁久彌の息子ではない。たまたま森繁久彌の息子だった」ということが書かれていて感激しました。



森繁 まさにそれが私の“ベース”で、まずは「あなたが主役」というか、「私が主役」と言いましょうか。そうでないと、「森繁久彌の息子」になって「森繁 建」がいなくなってしまう。もちろん、二世と言われる方の中には、進んで「〇〇の子どもです」と名乗る方もいらっしゃいますが、僕は常に「僕の根っこはなんだろう?」と考えるようにしています。
その意味では、多感な時期から「 “森繁の息子”というフィルターをはずしたとき、僕は他人から見てどのような存在なのだろう?」という想いにかられていました。
こんなこともありました。1960年頃、いわゆる“60年安保”の時代、僕は16歳でした。その時代の子どもなりに悩み、考えますよね。そういうとき、考えや想いを父にぶつけますと、父はじっくりと僕の話を聞いたあと耳を傾けてくれ、「うーん、なるほど。お前の言うことも間違いではないな」と言いました。
不思議なもので、頭ごなしに反対されずに受け止められると、逆に自分の考えを見つめ直すんですね。話を聞いてもらって想いを“引き取ってもらう”ことで“隙間”、すなわち心にゆとりができて相手の話も入ってくるし、父との関係も受け止められたと思います。
父から「そんなこと言ってないで、勉強しろ!」と言われていたら、どうだったか。僕が親と一緒にいて楽しいという気持ちでいられたのは、両親の育て方のおかげと思います。



石黒 ご両親の間で話し合っていたのでしょうか。



森繁 教育や子育てはもちろん、家庭内のことについて細かく相談することはなかったと思います。もともと生き方が違うふたりで、母は芸能界に関してベタベタしない人でした。「芸能界は夫の仕事場」という意識で、しゃしゃり出ない。自分の役目は家庭を守り、気持ちよく仕事ができるようにすること。方向や生き方を大枠で決めておけば、細かいことは話し合わないスタンスだったと思います。



石黒 ご本の中には、お母さまがミシンで洋服をパパッと縫う話や、撮影所に立派なお弁当を持たせるエピソードがありました。



森繁 はい。父がまだ売れていない頃、家ではたいした食事をしていなくても、母は撮影現場には立派なごちそう弁当を持たせる。すると「あの森繁ってやつの弁当はすごいらしい!」と噂になるんですね。その噂が監督の耳に入って「君の弁当を食わせてくれ」となった(笑)。洋服も、物のない時代ですから、母が「こっちのシャツ半分とこっちのシャツを半分つなげて…」という感じでシャシャッと、一着こしらえる。そういうことが母の才覚でした。



石黒 女性として魅力的です。知性とたくましさ、気遣いが同居していて。



森繁 そうですね、そこは父と母の共通点かもしれません。
実は僕の小遣いは、友人たちより少なかったんです。「友達は千円もらっている。僕にも千円ください」と言うと、「あなたが千円を使うと、父の仕事が派手だから二千円に見える。だからあなたは500円でちょうど良いの」と言って、500円しかくれなかった(笑)。
理不尽な気もしましたが、そんなふうに育てられたからこそ、自然に僕の周りには金目当ての人間が近寄らず、現在もつきあいの続く真の友達を得た。親の方針に感謝しています。




■愛し続けた千歳船橋


石黒 96歳で亡くなられたお父さまですが、長くお住まいになっていた千歳船橋への想いについてお聞かせください。


 
森繁 我が家は1946(昭和21)年11月に満州から引き揚げてきました。戦後1年たっても満州から離れがたく、葫蘆(ころ)島(現在、中国遼寧省西南部の港湾都市)の収容所で両親そろって皆さんのお世話をしたりして、昭和21年に佐世保に上陸しました。その後、母が東京女子大学の学生だった頃に下宿させてもらっていた東京・狛江にたどりつき、狛江の母方の親戚の離れに住まわせてもらっていました。
その後、その親戚の紹介で祖師ヶ谷大蔵の酒屋さんから「千歳船橋に持っていた店を使っていないので、どうですか?」と声をかけていただいて、引っ越しました。
当然、借家ですが、六畳一間と三畳で、あとは土間。その土間に、大工仕事が好きな父がどこからか古材をもらってきて、板敷にしました。塀も作って人が入らないようにして、家らしくなりましたよ。それが1947年前後で、父は新宿のムーラン・ルージュという劇場に出て売れっ子になりつつありました。



石黒 主演作を撮られたのはいつ頃ですか?



森繁 最初の主演作である『腰抜け二刀流』は1950年ですね。主演作を撮っていただいたことで、だんだんマスコミの方が取材に来るようになりましたが、あがってもらえるような家じゃない。だから父はいつも家の外でポーズをとって、写真撮影してもらっていました。そんなことをしているのもかっこ悪くなって、今の家に移ったという感じですね。



伊藤 当時、あのあたりは林でしたね。



森繁 そうです。その頃は弁天山と呼ばれていて船橋の端っこで。今、烏山緑道が小川だった頃で、川の向こう側が経堂。ザリガニや魚がたくさんとれました。
現在、我が家から駅前までの道を「森繁通り」(千歳船橋駅前から旧・森繁久彌邸前までの約660m。2010年8月、世田谷区が命名。同年11月に開かれた命名式には、地域の関係者数百名が参加した)と命名していただいております。
思い返すと、親父は千歳船橋を引っ越す気はまったくありませんでしたね。船橋が好きだった。家の前が坂道になっていましたが、祭りがあるとお神輿があがってくる。100人ぐらいやってきて、その人たちに酒をふるまったり…。正月には出初式があって、梯子乗りが我が家の庭で逆立ちをしたり…懐かしいですね。



石黒 地元の方々との交流がお好きだったんですね。



森繁 父の晩年は、車いすに乗って森繁通りを散歩しましたが、地元の皆さんがよく声をかけてくださってうれしかったです。地域の方々はあたたかく声をかけてくださるので、「かかわりって大事だなぁ」と思ったし、これからも大事にしたいですね。



⇒インタビュー記事の続き(後編)